活動報告


太閤さんの見た大阪平野

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大阪城(大坂城)は、戦国時代に天下統一を果たした豊臣秀吉が、天下人となって築き上げた栄華のお城です。戦国武将の中でも人気がある人物の1人で、太閤さんとも呼ばれ親しまれています。

 

この大阪城は、上町台地の固い安全な地盤上に建てられたお城です。上町台地は、洪積層(洪水で運ばれてきた荒い堆積物)の古い地層で、固く水はけがよい地盤です。その東西の平野は、軟らかい沖積層(川が運んできた細かい堆積物)の地盤です。上町台地の東側に河内平野、西側に大阪平野があり、こちらは軟らかく水はけもよくありません。

 

秀吉は大阪で一番よい土地に築城しました。
大阪城は「石垣」にも工夫があります。石垣は見えている面の一片の長さの2.5倍から3倍もの奥行きがあり、他の近世城郭では見られないほど格段に大きい石が使われています。見えないところにこのような工夫をすることによって、強固な石垣となっています。お城を取りまく内堀、外堀の周囲には、河川が近くにあり、戦略上も非常に重要な場所に作られていることがわかります。 秀吉は大阪を首都にしようとして城下町を整備しました。その周辺では町人たちが輸送のための川を掘り、人工の運河がたくさんでき、大阪は今でも水の都と呼ばれます。また、川が多くあれば必要となるのは橋です。町人による自主的な橋づくりが盛んに行われ、江戸時代には「江戸の八百八町」「京都の八百八寺」「浪華の八百八橋」と言われたほどです。

 

1600年の関ヶ原の戦いで負けた後も、豊臣家は大阪城を守り続けました。大坂冬の陣では、大阪城の周囲、今の平野区の岡山や生野区の林寺辺りで徳川方は陣を組んでいました。この陣がある河内平野(八尾市や東大阪市あたり)は、縄文時代頃は河内湾と言われた水域でした。大阪湾の海水がこの辺りまで入ってきており、遺跡発掘調査時には貝殻などが出土します。弥生時代頃には、土砂の堆積により海水の侵入が閉塞されたため、淡水域となり、少し狭くなって河内湖と呼ばれます。さらに弥生時代後期末から、古墳時代にかけて、河川の活動に伴って大量の土砂が運ばれ湖を埋めていきました。内陸部は後背湿地化して、軟弱な地盤の河内平野となりました。 この平野では、足軽が転んで足が抜けなくなったとか、槍を地面に突き刺したらズブズブと入りびっくりしたなど、軟らかい地盤であったことを裏付ける色々なエピソードが残っています。

 

その後、この軟弱地盤での建築技術が、徳川幕府の江戸城建設にも非常に役立ったと思われます。
江戸城は、入江に建てられたお城です。お城の基礎となる石垣等の沈下が懸念されたため、大阪での軟弱地盤対策に学び、長い木杭(松杭)を地中に打ち込んだり、表層に松などを井桁状に組んだりしたそうです。

 

また大阪平野にいた足軽たちは、海風がきつかったようで、風よけの小さな山でもあったらなという声が聞こえてきそうですが、約230年後にそれが実現します。
1831年(天保2年)に洪水防止と大型船の入稿をしやすくする目的で「天保の大川浚」と呼ばれる安治川の浚渫工事が行われました。その際、川を掘り下げた土砂をすぐ横の何もなかった平場に盛り土しました。その土砂が、日本一低い人口の山「天保山」(標高4.53メートル)となりました。(日本一低い自然の山は徳島県徳島市方上町にある弁天山で標高6.1メートルです)
丈夫な地盤に堂々と立つ大阪城と、現在も栄える大阪の町を秀吉も天から眺めているのでしょうか?

 

 

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